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「コンスタンティノープルの陥落 」★★★☆☆

TheodosiusWallsConstantinople.jpg"TheodosiusWallsConstantinople". Licensed under GFDL via Wikipedia.

コンスタンティノープルの陥落(コンスタンティノープルのかんらく)とは、1453年5月29日、オスマン帝国のメフメト2世によって東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル(現イスタンブル)が陥落した事件である。この事件により東ローマ帝国は滅亡、古代からのローマ帝国は最終的に滅亡した。
コンスタンティノープルの陥落 - Wikipedia: フリー百科事典 (2015/08/08 17:12 JSTの最新版)

評価:★★★☆☆


俺がコンスタンティノープルの存在を知ったのはAOCの資料だった。ビザンティンの首都であり難攻不落で強固な三重の防壁を有していたが、オスマントルコの連日による砲撃によって崩れ去ったと記憶している。このエピソードはなかなか印象的であった。というのもAOCにおける石壁は強固であり、それを複数枚貼る多重壁はそう簡単に突破できないが、トルコに倣って大砲を撃っていれば落とすことは可能だからだ。もちろん大砲の周囲には兵を固めておき、穴が開いたら突入させるわけであるから、その戦法はメフメト2世の基本戦術と同じなわけである。記憶に残るのも当然だ。

コンスタンティノープルが陥落することで長きにわたり続いたローマが滅びたわけであるが、この終わり方は運命的なものを感じる。陥落から遡ること1600年前、ローマはカルタゴを滅ぼしており、そのカルタゴにもまた強固な三重防壁があった。そしてカルタゴが陥落するときに指揮を取っていたスキピオ・アエミリアヌスは「ローマもいつか滅びる日が来るのであろうか」と言ったという。正にその通りなったというわけだ。とはいえカルタゴの場合、建物は壊され、鋤で均され、塩まで撒かれたのに対し、コンスタンティノープルはトルコによって再利用されている。獰猛と言われたオスマントルコよりローマのほうがよっぽどヤバい。

コンスタンティノープルが陥落し、東ローマ帝国が滅びたことによって、地中海周辺の状況も大きく変わっていく。西ローマ帝国の滅亡で古代が終わり、中世が始まったと言われるように、中世もまた東ローマ帝国の滅亡で終わりを迎えたのだ。大きな歴史の流れにおいて重要な場所であるだけでなく、キリスト教の聖地でもあるこの場所が、現代でもちゃんと世界有数の都市として残っているのは嬉しい。陥落させても街として再利用したメフメト2世は偉い。コンスタンティノープルも一度は行きたい場所である。

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